2019年7月31日水曜日

28日礼拝メッセージ要約

      <本日のメッセージ【要約】>
       『人生の空しさ』     詩篇39
 この詩篇の記者は苦しみと悲しみの心の状態にいて、人生の空しさを訴える。
人は皆、生きている生涯の中で空しさを感じる時がある。しかし、聖書の神様を知らない時
の空しさとイエス・キリストを信じて生きている時の空しさとは本質的には心の状態は違う。
 なぜなら、人間の心を造られた神様がいることを信じているので、自分一人ではなく、神
に呼びかけることができるからである。
 私自身の過去を振り返ると、空しさが襲って来た時、何もかも嫌になり、破壊的心境に
なった。ずっとその思いでいなかったから、殺人者にはならなかった。
聖書によれば、私たちはカインの末裔で、兄弟殺しの殺人者の血を引いているのかも知れな
い。私は虚しさを感じながら、快楽を求めて青春時代を過ごしていた。
ある時、友人から勧められた教会の月報に書かれてた文章に心惹かれた。文章の表題が
「空虚」という言葉であった。その言葉に惹かれ、初めてキリスト教会に行った。
礼拝の中で語る牧師のメッセージに心惹かれ、毎週、日曜日には教会の礼拝に行くようにな
った。ところが、3か月ぐらい熱心に通ったが、礼拝に出た日は清い心というか、
神への純粋な心で満たされたが、翌日には、そのような心はなくなり、汚れた悪い心になる
自分がいた。そういう自分に耐えられなくなり、行かない方が楽になると思い、教会から
離れた。そして放蕩三昧をして、心も体も疲れ切ってしまい、半月ほど寝込んでしまった。
寝込んでいた時、神様に赦しを乞い、教会に戻った。そして、イエス様を信じてから、
人生の空しさ、空虚感からは解放された。
 しかし、空虚感はなくなったが、人生のはかなさ、この世の空しさを感じてきた。
でも、それは、神のいない空虚感ではないので、心は穏やかでいられた。
人生の目的に神という絶対的存在があったので、目に見えるものや起こって来る現実の
時や出来事に、心が囚われないでいられた。
 詩篇の詩人もそうであるが、コヘレトの言葉を書いた伝道者も、この世の空しさ、
人生の空虚を体験しても、絶対者の神に依存しているので、穏やかな心でいられた。
 もう少し、神にある空しさとは何か、考えてみたい。
聖書を通して、この世にあるもの、目に見えるものは変わるということを知る。
過去の歴史を学ぶことは大切である。そして、その歴史の中に、全能なる神が働き、
介入していることを知ることである。聖書の歴史観は初めと終わりがある線の歴史観で
仏教やギリシア哲学の歴史観は初めと終わりがなく、繰り返す円の歴史観である。
歴史を学ぶことで、これから起こって来ることがある程度、予想出来る。しかし、完全には
無理で、神様のみが知っていることである。
 この世界の終わりの状況はイエス様が預言されている。この世の終わりが来る。しかし、
イエス様はわたしがいつも共に、一緒にいるから、恐れるな。勇気を出して強くあり
なさいと言われている。私たちは何かあるとすぐに恐れ、不安な心に陥るがこの詩編の記者
のように主に望みをもち、主に祈り願って行こう。
今の時がどんな状況であろうとも、主を見あげ、主に頼って行くことが私たちの信仰である。




2019年7月24日水曜日



<本日のメッセージ【要約】>


『来て、見なさい』
ヨハネ143節~51
 南晃伝道師

イエス・キリストは、人から人々から
栄光を受ける必要がない。
説明も必要としない。
ご自身に栄光と証がある。

『来て、見なさい。』とあるが、
 主ご自身が人の間に降って来て下さった。『来なさい。そうすれば分かる。』
とあるように、直接出会うことが
できる方が、生けるまことの神である。

初対面であるにもかかわらず、
主はナタナエルを知っていた。

主は、わたしたちが母の胎につくられる前
からわたしたちを知っておられる。

そして、天にある神のご計画
― 一人一人に対して― を教えられる。
そして、人が知らない大いなることを
語られる。
(エレミヤ333
              (南晃伝道師)