2019年8月15日木曜日

礼拝メッセージ要約

<8月11日のメッセージ【要約】>

  『主を尋ね求める人』         詩篇40
 キリスト信仰は私たちの人生に神の御業を体験して行く信仰である。ただ頭で考え、信じる観念的な信仰ではない。詩人も苦悩の中で、主を呼び求め、神の御業を体験している。
6節で「わたしの神、主よ。あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます」と不思議な神の業
を体験して、神に感謝し称えている。
私たちの人生も不思議なことが起こり、不思議を体験する。神を信じない者はそのことを
たまたま、偶然と取り扱う。しかし、聖書の神は私たちの人生のみならず、この世に起こる
ことは神が介入していること、そして神に対抗する悪魔、サタンが存在することを教える。
でも、出来事が神によるか、悪魔によるかを見極めることは難しい。
だから、ここに霊的な判断力、信仰の目が必要となる。それには、聖霊の力と知恵を
頂かなければならない。どうしたら良いか。「主を尋ね求める人」になることである。
 主を尋ね求める人になるには、聖書を日々読んで行くことが大切である。
信仰者にとって、聖書は神の言葉、霊の糧なので成長するのに欠かせない。
二つとして主に祈り求めていくことである。私たちの信仰は目に見えない神、主イエス様に
祈り求めていくことだから、ある面難しい。
そこには、信じて祈る信仰が無ければ続かない。主を尋ね求める人になるには、三つ、
何事も主に委ね、主に望みを置くことである。この詩人は1節で「主にのみ,わたしは
望みをおいていた。」と言う。
私たちも神の約束を受けた。それはあなたを救い、この地上で祝福を与え、神の国(天国)に
入れる約束。その約束を最後の時まで、信じ切れるかどうかが私たちの信仰である。
私たちはこの世に、目に見えるものに望みを置くと、私たちの人生は空しくなる。
なぜならば、悪魔が存在し、私たちの欲望を燃え上がらせ、この世の物質や金を絶対化するから
である。現代は金があれば、経済が豊かであれば、何でも望みが叶えられ、幸せになると教えるが、
それは一面的である。
人間を本当に幸福にし、生きている喜びは関係の中に存在する。神との関係、人との関係、
自分との関係が正しい、より良い関係の時こそ、幸せ、幸福を感じる。
何故ならば、魂が安心、平安になるから。現代社会は親子家族、他人との関係、
そして自分との関係が薄れ、壊れている。その関係を修復するにはどうしたら良いか。
先ず、創造主の神との正しい関係を築いて行かねばならない。罪を犯し、自分勝手な私たちが
父の神の前に出て、罪の赦しを乞わなければならない。断絶した父の神との関係を修復するには、
罪を執り成す仲保者、父の神と人との間に入ってくれる十字架のイエス様が必要であった。
主を尋ね求める人は皆、イエス・キリストに出会い救われる。
そして、主を尋ね求める人は目に見える人間社会がどのようになろうとも、望みを主に
置き、主の教えを守って行く。イエス様の教えは心から主を愛し、人を愛していくことである。
これにまさる教えはこの世にはない。

2019年7月31日水曜日

28日礼拝メッセージ要約

      <本日のメッセージ【要約】>
       『人生の空しさ』     詩篇39
 この詩篇の記者は苦しみと悲しみの心の状態にいて、人生の空しさを訴える。
人は皆、生きている生涯の中で空しさを感じる時がある。しかし、聖書の神様を知らない時
の空しさとイエス・キリストを信じて生きている時の空しさとは本質的には心の状態は違う。
 なぜなら、人間の心を造られた神様がいることを信じているので、自分一人ではなく、神
に呼びかけることができるからである。
 私自身の過去を振り返ると、空しさが襲って来た時、何もかも嫌になり、破壊的心境に
なった。ずっとその思いでいなかったから、殺人者にはならなかった。
聖書によれば、私たちはカインの末裔で、兄弟殺しの殺人者の血を引いているのかも知れな
い。私は虚しさを感じながら、快楽を求めて青春時代を過ごしていた。
ある時、友人から勧められた教会の月報に書かれてた文章に心惹かれた。文章の表題が
「空虚」という言葉であった。その言葉に惹かれ、初めてキリスト教会に行った。
礼拝の中で語る牧師のメッセージに心惹かれ、毎週、日曜日には教会の礼拝に行くようにな
った。ところが、3か月ぐらい熱心に通ったが、礼拝に出た日は清い心というか、
神への純粋な心で満たされたが、翌日には、そのような心はなくなり、汚れた悪い心になる
自分がいた。そういう自分に耐えられなくなり、行かない方が楽になると思い、教会から
離れた。そして放蕩三昧をして、心も体も疲れ切ってしまい、半月ほど寝込んでしまった。
寝込んでいた時、神様に赦しを乞い、教会に戻った。そして、イエス様を信じてから、
人生の空しさ、空虚感からは解放された。
 しかし、空虚感はなくなったが、人生のはかなさ、この世の空しさを感じてきた。
でも、それは、神のいない空虚感ではないので、心は穏やかでいられた。
人生の目的に神という絶対的存在があったので、目に見えるものや起こって来る現実の
時や出来事に、心が囚われないでいられた。
 詩篇の詩人もそうであるが、コヘレトの言葉を書いた伝道者も、この世の空しさ、
人生の空虚を体験しても、絶対者の神に依存しているので、穏やかな心でいられた。
 もう少し、神にある空しさとは何か、考えてみたい。
聖書を通して、この世にあるもの、目に見えるものは変わるということを知る。
過去の歴史を学ぶことは大切である。そして、その歴史の中に、全能なる神が働き、
介入していることを知ることである。聖書の歴史観は初めと終わりがある線の歴史観で
仏教やギリシア哲学の歴史観は初めと終わりがなく、繰り返す円の歴史観である。
歴史を学ぶことで、これから起こって来ることがある程度、予想出来る。しかし、完全には
無理で、神様のみが知っていることである。
 この世界の終わりの状況はイエス様が預言されている。この世の終わりが来る。しかし、
イエス様はわたしがいつも共に、一緒にいるから、恐れるな。勇気を出して強くあり
なさいと言われている。私たちは何かあるとすぐに恐れ、不安な心に陥るがこの詩編の記者
のように主に望みをもち、主に祈り願って行こう。
今の時がどんな状況であろうとも、主を見あげ、主に頼って行くことが私たちの信仰である。




2019年7月24日水曜日



<本日のメッセージ【要約】>


『来て、見なさい』
ヨハネ143節~51
 南晃伝道師

イエス・キリストは、人から人々から
栄光を受ける必要がない。
説明も必要としない。
ご自身に栄光と証がある。

『来て、見なさい。』とあるが、
 主ご自身が人の間に降って来て下さった。『来なさい。そうすれば分かる。』
とあるように、直接出会うことが
できる方が、生けるまことの神である。

初対面であるにもかかわらず、
主はナタナエルを知っていた。

主は、わたしたちが母の胎につくられる前
からわたしたちを知っておられる。

そして、天にある神のご計画
― 一人一人に対して― を教えられる。
そして、人が知らない大いなることを
語られる。
(エレミヤ333
              (南晃伝道師)