<8月11日のメッセージ【要約】>
『主を尋ね求める人』 詩篇40
キリスト信仰は私たちの人生に神の御業を体験して行く信仰である。ただ頭で考え、信じる観念的な信仰ではない。詩人も苦悩の中で、主を呼び求め、神の御業を体験している。
6節で「わたしの神、主よ。あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます」と不思議な神の業
を体験して、神に感謝し称えている。
私たちの人生も不思議なことが起こり、不思議を体験する。神を信じない者はそのことを
たまたま、偶然と取り扱う。しかし、聖書の神は私たちの人生のみならず、この世に起こる
ことは神が介入していること、そして神に対抗する悪魔、サタンが存在することを教える。
でも、出来事が神によるか、悪魔によるかを見極めることは難しい。
だから、ここに霊的な判断力、信仰の目が必要となる。それには、聖霊の力と知恵を
頂かなければならない。どうしたら良いか。「主を尋ね求める人」になることである。
主を尋ね求める人になるには、聖書を日々読んで行くことが大切である。
信仰者にとって、聖書は神の言葉、霊の糧なので成長するのに欠かせない。
二つとして主に祈り求めていくことである。私たちの信仰は目に見えない神、主イエス様に
祈り求めていくことだから、ある面難しい。
そこには、信じて祈る信仰が無ければ続かない。主を尋ね求める人になるには、三つ、
何事も主に委ね、主に望みを置くことである。この詩人は1節で「主にのみ,わたしは
望みをおいていた。」と言う。
私たちも神の約束を受けた。それはあなたを救い、この地上で祝福を与え、神の国(天国)に
入れる約束。その約束を最後の時まで、信じ切れるかどうかが私たちの信仰である。
私たちはこの世に、目に見えるものに望みを置くと、私たちの人生は空しくなる。
なぜならば、悪魔が存在し、私たちの欲望を燃え上がらせ、この世の物質や金を絶対化するから
である。現代は金があれば、経済が豊かであれば、何でも望みが叶えられ、幸せになると教えるが、
それは一面的である。
人間を本当に幸福にし、生きている喜びは関係の中に存在する。神との関係、人との関係、
自分との関係が正しい、より良い関係の時こそ、幸せ、幸福を感じる。
何故ならば、魂が安心、平安になるから。現代社会は親子家族、他人との関係、
そして自分との関係が薄れ、壊れている。その関係を修復するにはどうしたら良いか。
先ず、創造主の神との正しい関係を築いて行かねばならない。罪を犯し、自分勝手な私たちが
父の神の前に出て、罪の赦しを乞わなければならない。断絶した父の神との関係を修復するには、
罪を執り成す仲保者、父の神と人との間に入ってくれる十字架のイエス様が必要であった。
主を尋ね求める人は皆、イエス・キリストに出会い救われる。
そして、主を尋ね求める人は目に見える人間社会がどのようになろうとも、望みを主に
置き、主の教えを守って行く。イエス様の教えは心から主を愛し、人を愛していくことである。
これにまさる教えはこの世にはない。
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